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箱舟

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 忘れない、なんて言葉を口に出すのはとても簡単で。
 だけどそれを守っていくのは、とてもとても難しい。

 

 きっかけはほんとうに、とても彼女に話せないような、どうしようもないくだらない出来事。
 暑さもまだ引ききっていない八月。仕事帰り、たまに寄っていくメイド喫茶で夏祭り浴衣イベントがあるという情報を見つけ、給料日後だったのもあって足を伸ばした。
 俺自身あまり金払いのいい客ではないので、あまり目立たない端の席に通される。もっとも俺自身あまり女性と話すのが得意ではないので、一人ゆっくりできるこういった席はかえって助かった。
 とりあえず写真付きのドリンクを一杯頼む。贔屓の店員さんはいなかったので、代わりに最近新しく入った新人の中から、適当に見繕ってそのメイドの写真を指名する。
 写真を指名されたメイドは客のところに向かい、目の前で写真にメッセージを書きながら客と少しだけ話をする。最初連れてこられたときは随分暴利なシステムだな、と思ったものだが、今は気軽なキャバクラだと思えばさほど気にならなくなった。
 新人はいち早く客に顔を覚えてもらい、指名してもらえるようにするために長く話す傾向がある。今回頼んだのもそんな理由で、こっちが話さなくてもあちらから話題を出してくれるのは気が楽だった。
 先にドリンクが届き、店内で働いている浴衣姿のメイド、なにを言っているか分からないかもしれないが本当にそうなのだから仕方がない、を見ながらゆったりしていると、やがて指名した新人が目の前に現れた。
「お待たせしました~! 最近入りました○○って言います~!」
 おおよそ本物のハウスメイドなら発さないような軽い調子で自己紹介をしてくる彼女の言葉に心の中で苦笑しつつ、ぼんやりと室内を見ていた目を彼女に向ける。
 


 そう、きっかけはそんな、どうでもいいようなことで。

 目の前の彼女は、あの時の彼女ではない、なんてことは分かっていて。
 そもそも今に至るまで、俺は彼女のことを、あの夏の日によって分かたれた彼女のことを、記憶の奥底に沈めていて。
 だから、本当に、本当に。思い出せたのは奇跡のような偶然。

 

 
 忘れないと、いつかまた会おうと、そう誓ったはずだったのに。

 呆然と見つめる俺を、緑の浴衣を纏ったこけし頭の新人メイドは不思議そうに眺めていた。